忘れられない思い出があります。
私は小学3年生でした。
当時、誕生日には仲のいい友達を呼んで自宅で誕生会をするのが流行っていました。
私も数人のお友達を招いて誕生会をすることにしました。
春に転校して、初めての夏休みでもありました。
母はスイカの皮を器にしたフルーツポンチを作ってくれました。
私は誕生会が始まる時間を今か今かと待ちわびていました。
開始時間の1時間前だったか30分前だったか。
お友達の一人から、行けなくなったと連絡がありました。
何となくイヤな予感がしました。
その予感は的中して、待てど暮らせどお友達は誰一人として来なかったのです。
自分はあんまり人気ないんだな、ということに気づいてしまった瞬間でした。
母の前で、自分には人気のないことが露呈したのが恥ずかしかった。
泣き出したかったけど、母の前で泣くことすら恥ずかしかった。
母はなにごともなかったようにふるまってくれました。
スイカのフルーツポンチは夜、家族で食べました(本当はあんまり覚えてないけど)。
誕生日が来るたび、今でも必ず思い出しますが、未だに誰にも話せないくらいには悲しい思い出です。
でも、切ない気持ちと同時に母への感謝の気持ちも湧き上がります。
母は小学校の教師でしたから、私がクラスでどういう立ち位置なのか、私以上に理解したでしょう。
それなのに、友達が一人も来なかったことについて何も言わず、なにごともなかったようにふるまってくれた母。
その態度に幼い私がどれほど救われたことか。
それからも色々な悲しいことに出会いながら私は大人になりました。
思春期には自分が大して美人ではない…というよりむしろその逆であることに気づきました。
受験生の時には思った以上に自分の頭が悪いことにも気づきました。
おしゃべりが下手くそで、対人関係が苦手なのは年々酷くなってきています。
…いいところが全然ないじゃないか(笑)。
自分を客観視するのは時に苦痛を伴うけれど、それでも必要なことだと思います。
そして客観視するには人と比べる作業がどうしたって必要です。
だから私は、最近の、横一列な風潮を少し疑問に思います。
かけっこで早く走れないこと、成績がよくないこと、モテないこと…。
他人と比較せずに自分を知ることは出来ないのです。
それに、社会に出てしまえばもっともっと熾烈な競争社会です。
大人の競争社会を生き抜くためには、純粋培養するより、子供の頃から少しづつ免疫をつけておいた方がいいと思います。
そして、いろいろダメダメな自分を認めた上で次へのステップに活かしたい。
次に進むことができれば、コンプレックスを抱えた自分のことも好きになれると思うのです。そんな自分でありたいと思います。
身も心もすっかり図太いオバちゃんになった今でも時々自分を他人と比較して凹むこともあるけれど、誕生日を迎えて、それなりに今の自分が好きな私のひとりごとでした。